京大宝生会の歴史
現在の京大宝生会には1955年創設以来、約60年の歴史があります。
また、そのルーツをたどってみると、何とさらに数十年も遡ることができるのです!
京大宝生会の歴史を少し覗いてみましょう。
京大宝生会の前身
京大宝生会の前身は、知られる限り1930年代にまで遡ります。当時、京都大学の宝生会を指導していたのは、地球磁場の反転説の提唱者として名高い地球物理学者で理学部長の松山基範教授でした。松山師は能に大変造詣が深く、宝生流の能に興味を持つ多くの学生が集まって師の指導を仰いていたようです。実際、1940年頃には出町柳の清浄院というお寺にて週に一回ほど松山師による稽古が行われ、松山師の弟子の会という形で発表会も行われていたという記録が残っており、京大宝生会の深い歴史がうかがわれます。その後も活動は続いて行きますが、1943年に学徒動員が始まると会は中断を余儀なくされてしまいました。
戦後しばらくして、ふたたび京大に宝生会が興ります。稽古は謡が中心で、指導にあたったのは理学部地球物理学教室の長谷川万吉教授でした。また、能楽師の柏原仁兵衛師にも御指導をいただいていたようです。稽古は月に二、三回、百万遍寺院の塔頭了蓮寺の座敷で行われ、柏原師などの力添えで学生能会も催されました。その後、吉田寮門内の建物の和室でも稽古が行われるようになりますが、この会も1950年代半ばになると消滅してしまいます。
現在の京大宝生会
現在の京大宝生会としての歴史は、1957年、教養課程のために置かれていた宇治分校に始まります。当時、北川清之助師が数人の京大職員を稽古していたところに、学生が誘い合い、師の指導を請い願ったのでした。顧問には長谷川万吉教授が就任されました。京大宝生会の再スタートです。1958年稽古場が吉田分校に移ると、同年6月、京大宝生会は名古屋での全国大会で初舞台を迎えます。出したのは「土蜘」の連吟(囃子や舞を伴わない謡のみの上演形式のこと)。この大会は全国宝生流学生自演会(全宝連)といい、1954年に発足した宝生流の能をやる学生達のための発表会で、いまなお続いている伝統ある自演会です。この会の開催場所は東京、名古屋、京都、金沢を4年周期で繰り返します。そして名古屋大会の翌年の1959年、京都での全宝連において京大宝生会は、新生3年目にして「土蜘」の能を出すこととなります。これに際し、それまでやっていなかった仕舞の稽古の師匠として小川芳師を迎えることとなりました。
また、1958年から京大の文化祭参加という形で11月下旬に観世会、狂言研究会と合同で学生自演会を開催するようになり、1964年には初めて学生自演能に取り組み、「箙」という能を出すに至ります。この11月の自演会は、現在11月中旬に行っている「能と狂言の会」へとつながってゆくことになります。このようにして、今もなお受け継がれる活動の素地が少しずつ築き上げられていったのでした。その後も、部員少数など様々な困難の時期も乗り越えつつ京大宝生会は綿々と活動をつなげてきました。多くの先生方からは相変わらずの大変なお力添えを賜り、1960年には京大OBで阪大教授であった坪光松二師に謡の指導者に就任いただき、1961年には辰巳孝師に顧問に就いていただきました。辰巳師には長期にわたり、自演会直前等に際しては直接ご指導もいただいたとのことです。北川師、長谷川師が亡くなられてからは、医学部の村上仁教授に顧問に就任いただき、その後、謡はOBの徳永力雄師、米沢郁雄師に教わり、またも多くの先生、OB、OGの方々に支えられながら、現在、京大宝生会のOBである吉本正春師、澤田宏司師にご指導いただくに至っています。
時代によって抱えてきた制約や困難は様々ですが、発表会を目標に部員達が精いっぱい日々稽古を重ね、そして周りのたくさんの方々に支えられ活動をつなげてきたというのは、どの時代にも共通して言えることのようです。そのようなすばらしい環境で活動できる幸せをかみしめつつ、伝統ある京大宝生会を次の世代へとつなげてゆきたいものです。