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高野山旅行記

※これは宝生会の活動ではなく、個人的な旅行です。

1月末の試験が終わり暇になったところで、昨年の8月を思い返してみると、免許を取るための帰省と自転車に乗った記憶がわずかにあるばかりであった。何もしないことを喜ぶ価値観があってもよいと思うが、残念ながら現代人の頭にはそんなおおらかな心はインストールされていないようで、何かしたいというぼんやりとした希望から、高野山に行くことにした。京都からだと、まず大阪のなんば駅に向かい、南海電鉄に乗り換えて賑やかな沿岸部をあとにし、和歌山の山中へ向かってゆくことになる。橋本駅で乗り換えると、最大50パーミル(1㎞で50m上昇)の傾斜を持つ山岳鉄道となり、急カーブが連続するため車輪のきしむ音が鳴り響く。終点の極楽橋駅からはケーブルカーが出ているが、私は歩いて上を目指すことにした。


極楽橋。ここから1時間ほどで女人堂まで登ることができる。雪はなく、歩きやすい道であった。

熊目撃情報の看板におびえながら30分ほど登ると、由ありげなお堂が姿を現す。清(きよめ)不動堂(ふどうどう)というらしいが、今は不動明王像は保全のために山頂の霊宝館に移されている。人の気配はない。立ち止まると、侵入者に対して警戒の鳴き声を上げていた小鳥たちも次第に静かになり、熊笹の擦れる音だけが聞こえるようになる。山頂には女人堂。1872年に高野山の女人禁制が解かれるまで、女性は聖域を囲む女人道と、7つの女人堂をめぐっていた。現在は、不動坂口の一つを残すのみである。女人堂前の坂を下っていくと、蓮華定院(真田家の菩提寺)や、徳川家霊台の案内が見えてくる。

ここで少し、高野山の地理を説明しておきたい。高野山とよく比較される比叡山は、山中のわずかな隙間に建物を詰め込んであるといった風で、霧の漂う木々の隙間から見えるお堂の姿など、これはこれで趣があるが、高野山は山頂に街を形成している。東西3㎞、南北1㎞にわたって、117の寺院が存在する。その西の端の大門からは、幾重もの山に隔てられ、遠く大阪湾が望める。直線距離で25㎞は離れているため、自然俗世と隔絶された地という雰囲気を帯びる。私が登ってきた不動坂口は、北西の方角にあたり、南に下っていくと金剛峯寺がある。空海の入唐を描いた襖絵や、日本最大級の石庭である蟠龍庭もあったが、私的には、台所が一番の見どころであった。幅2mはある巨大な排煙口と、一度に七斗(98㎏)の米が炊ける大釜が3つ並んでいる。ライトも柵もなく、見ている間にも一人の僧が早足に通り過ぎて行ったような場所だが、往時の生活が思われる。また、千住博画伯の瀧図を一面に描いた土室(冬に暖を取るために土壁で覆った部屋)も圧巻であった。金剛峰寺の次に立ち寄ったのは壇上伽藍。ここは高野山の寺院の中心であり、四天王像のある中門をくぐると、桁行(建物の横に伸びる桁の長さ)が30mの金堂がまず目に飛び込んでくる。その右奥には根本大塔。8人分の高さはあろうかという朱塗りの扉や、方形の上に乗る二段目の円形の堂という特殊な形が見る者を圧し、高さは奈良の大仏殿より少し高いくらいだが、大仏殿と違って高さ方向に大きいせいか、60,70mもあるような威容をもって迫ってくる。向かいの霊宝館には、先に触れた清不動の不動明王や、平清盛が自らの額の血を混ぜた絵具で描かせたという両界血曼荼羅の複製、快慶作の深沙大将立像・執金剛神立像といった品々が展示されていた。

夜に訪れた根本大塔。石段だけで身長の2倍近くある。粉雪がかすかに舞っていた。


日も暮れかかり、宿坊に向かう。高野山にある117の寺院のうち、52の寺院が宿坊として観光客を受け入れており、今回泊まった清浄心院もその一つである。この寺院は、弘法大師により建てられたが一時荒廃していたのを、平宗盛により再建されたと書いてある。宗盛といえば、1回生で習う、「熊野(ゆや)クセ」。母親の病気のため帰りたいと請う熊野を、「母の病は気の毒だが、この春ばかりは一緒に花見をしたいのに見捨てるのか(そんなこと知るか、四の五の言わず来い)」と強引に花見に連れてきて、舞うことを命じている悪人だというように思っていた。平家物語でも、頼政の謀反の原因とされるなど、傲慢なドラ息子だというイメージがぬぐえなかったが、文化面での資質があったようである。考えてみると、「いかにせむみやこの春も惜しけれどなれしあづまの花や散るらむ」という熊野の和歌を聞き、帰郷を許したというのも、情趣を解する人であったことが伺えなくもない。古の僧の修行を感じてみたいという浅はかな考えでストーブをつけずに眠ったが、前日5時起きをして一日中動き回った疲れからか、2時ごろに一度目を覚ましただけで夢も見ずに眠った。翌朝は6時半からのお勤めに参加。置いてある椅子を得意げに無視し、正座でお経を聞く。不勉強で言葉は聞き取れないが、どうやら最初に経を旋律とともに唱える声明、次によく聞くお経、最後に真言で仏の名前を唱えているようである。1時間ほどのお勤めに参加したのは、私と観光客二人。1,2月は一番人が少ない時期らしく、場合によっては雪が膝下まで積もるとのこと。この時期に来たのは幸運だったかもしれない。8時前には荷物をまとめて奥の院へ。前日思いついた突貫旅行で下調べもろくにしていなかったのだが、高野山には数多くの武将、大名の墓があるようだ。その他にも30㎝程の高さの個人の墓、事故供養塔など、大小20万ともいわれる塔が、苔に生されて立ち並んでいる。頭上には樹高50mの老杉がそびえ、陽が出てもまだ朝の冷たさの残る空気が張りつめていた。高野山奥之院には、3つの橋がある。一の橋を渡ると聖域。すぐ左手に曽我兄弟供養塔(曽我物の能に登場)が見える。右手には平敦盛と熊谷直実の供養塔が並んでいたり、そのすぐ隣に親鸞聖人供養塔があったりと、ここでは時代も立場も関係ない。それでも、さすがに焼き討ちは駄目だったようで、武将・大名の墓にはことごとく門が付き、石塔も数mに及ぶ中で、織田信長供養塔は案内もなく、並んでいるお墓と区別がつかないほどひっそりと建っていた。中の橋を渡るとあの世。覗き込んで姿が映らないと3年以内に死ぬといわれる姿見の井戸があったが、さすがに怖くてのぞき込むことはできなかった。御廟橋を渡ると弘法大師御廟と燈籠堂がある。御廟の前では、お経を唱える参拝者の姿があった。手を合わせて御廟橋のたもとに戻る。ちなみに、それぞれの橋は必ず脱帽して一礼してから通る習わしである。戻ったところでちょうど生身供が運ばれる時間であった。弘法大師は未だ禅定を続けているという信仰の下、1200年にわたり、午前6時と午前10時半(仏戒により午後の食事が禁じられている)に食事が供えられ続けている。生身供を見送り次に向かったのは金剛三昧院である。叔母の顔よりは見た校倉造の経蔵と、国宝の多宝塔がある。三昧院の入り口から50mほど下ったところで、「熊野古道小辺路」の看板を見つけた。ここから4日歩いた先に、熊野大社があるのか、いつか歩いてみたいなどと、恐ろしい考えが頭の中に浮かんだのを何とか抑え込む。最後に、昨日見落としていた三鈷の松を見に行った。空海が布教の場所を決めるために唐の明州から投げた三鈷杵という道具が引っ掛かっていたとされる松で、能の『高野物狂』においても三鈷の松の下で話が進む。


三鈷の松。葉が3つに分かれている特別な松だ。




謡曲史跡保存会による「高野物狂」の木札。三宝院の入り口に立つ。


















帰りは流石に歩く元気はなく、バスとケーブルカーに乗り、高野山を下りた。着こんでいた服で暑くなり、高野山がいかに寒かったかを思い知らされる。気温計を見ると、日中でも2度前後、夜には氷点下まで下がっていたようである。今回の旅行で一番強く感じたのは、この寒さであろう。吹き込みがあるにしても窓ガラスが一応外と中を隔て、ストーブもつけることができる現代でもこれほど寒いのだから、1200年の昔はどうやって冬を超えたのだろうかと修行の苦労を思い遣ると、俗世から隔絶された近世までのこの地であれば、悟ることもできただろうなと訳もなく感ぜられた。

                                     文責:H

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