top of page

胡蝶蘭


雨が降り続いている。今年の梅雨はいやに激しい。鴨川の水も増えていると聞く。じめじめとしたというよりは、涼しいくらいの風が吹いて、小さな粒の霧が傘を開こうか迷わせる。そんな午後に、今出川通を歩いていた。東山は霞み、それでも近づくにしたがって緑を濃くしていた。ある人の姿がわたしの目を捉えた。片手に持つには大きな、緑の植木のようなものを2つ抱えた人が歩いてくる。わたしはその人と通り過ぎる頃には、それがランだろうということの目星をつけていた。特に茎があるわけではなく、根のような、太いものが自由に伸びた塊。なぜあの人はこんなところを、ランを持って歩いていたのだろうか。ホームセンターの方角とは反対だというのに。途中に不思議な造園屋さんがある。よく花器や小さな鉢植えを、無人販売している。わたしはその横を通り過ぎながら、ランを探した。果たして、ランはそこにあった。無造作に置かれた塊。白く半透明な植木用ポットに、太い根のような、足のようなものが内側から張り付いている。「コチョウランご自由にどうぞ」。かがんで、近くの大きめの塊を持ち上げた。花は全くついていない。花が終わり、切られた茎は無残でもある。根のうちには茶色くしなびた部分もあるが、それ以上に厚みのある葉の部分が硬く締まり、生命力をたたえていた。それとも霧を含んだ空気のおかげでそう見えたのだろうか。片手で持つには少し重いと思ったが、幸いに荷物が軽かったのでランを手にして歩き出した。コチョウラン、胡蝶蘭は、自然には見かけないランだ。その代わり、お祝いに鉢のまま贈られる。花もまるで顔のように大きく存在感があり、連なって咲いているのは目を引く。花も茎と同じように、厚みがありどこか水と空気を含んだスポンジのようでもある。歩きながら、片手のなかのラン、その奇怪な姿を眺めた。いったい茎はあるのだろうか。この大きな分厚いものは葉なのだろうか。横に伸びる竹のような、緑の根は本当に根なのだろうか。ポットの先から水が垂れてくるので、身体から離して持った。ランから滴る水が、杯に溜められて、仙人がそれを飲み干すところをイメージする。胡蝶蘭―それは蝶のような花の姿に由来することは紛れもないが、ランのもつ不思議さ、自由さを引き出す名前だ。荘子がなりかわった蝶。梅の花に会えないと嘆く精。ひらひらと飛び回る蝶が留まるうちに、花になってしまったのだろうか。足のように、奔放に伸びる根は遊んでいるようだ。どこから来たのかは知らないが、こうして生まれ故郷を遠く離れ、ここへ、まるで目的もなくやって来たのだろう。


謡曲の「胡蝶」のシテは、草木の梢に遊ぶ胡蝶の精である。春ごとに、生まれる前に咲いてしまう梅の花に縁がないのを嘆いている、と旅僧に言う。定家の歌を匂わせ、荘子の話を引き、紫の上から中宮にあてた歌を引き、儚く美しいイメージが広がる。胡蝶の精は旅僧に、木の下で宿をとってくれ、夢に必ず現れるから、と言う。春のうたた寝のような短寝に、胡蝶が現れるというのは当てにできない約束だと思いながら、僧が約束通りに寝て読経する。ほとんど逢引である。ここに艶っぽい印象を感じるのは作者の意図通りだと言わざるを得ない。嘘だと思う人は謡本を紐解いてみてほしい。もともと、荘子の話は「夢と現は区別がない。全て夢だと考えても良い、そうすると自由になれる」というような話とされるが、梅花を思う胡蝶、人の姿になる胡蝶、胡蝶に慈悲をかける僧、そのような繋がりが生み出されるこの能の中に引用されると、草木と人間の交感の、本質的な意味、つまり人間と草木は本来区別はない、という思想の表れのように読める。能では草木を多く「そうもく」と読み、ここでは花も鳥も虫も含んでいる。


またこの曲は、他の多くの曲と同じように、僧の夢に何者かが現れ、朝になっては願いを果たして消えていくという形でもある。夢の世界のはずだったのに、胡蝶の精は喜びに舞を舞いながら、現実の朝靄の中に消えていくのである。実は、夢と現の混じりというのは多くの能の構造なのだ。それでも曲ごとにバリエーションはある。この曲は、ほぼ最後にクリと呼ばれる高音が出てくる節があり、消えていく瞬間までいきいきとした胡蝶を表しているようだ。現実の世界では日没から夜明けまでの時間でも、胡蝶は春、夏、秋と生きて、白菊の季節も味わっている。この辺りは、舞あそぶ蝶の姿から輪廻のイメージ、仏果を得るなどの言葉が流れるようにつながり美しいので、ぜひ一度味わってみてほしい。ちなみにここが一回生のうちにできる仕舞部分でもある。


うちに来た胡蝶蘭はまた花を咲かせてくれるだろうか。

調べたら、胡蝶蘭は熱帯の木に着生して霧から水分を得ているそうです。これはもう仙人ですね。文学部2回のOでした。


Comments


    ©京都大学能楽部宝生会

    bottom of page